【峠】第2回 雪山を越えて

峠【司馬遼太郎】

 

司馬遼太郎の「峠」を読みながら、河合継之助について書いています。
藩から遊学の許しを得た継之助は、春を待たず、出立します。

 

狂人、継之助

 

継之助が遊学の許しを得たのは冬です。
越後は雪に閉ざされ、江戸に向かう道も当然雪道です。
越後から江戸までの道のりで、当時最も難関とされていたのが、三国峠です。
三国峠は、現在の国道17号線「三国街道」にある県境の峠です。
長岡から湯沢までは川沿いを行けるのですが、湯沢から群馬県に抜けるには、この峠を越えるしかありません。
峠を越えて群馬に出れば、また川沿いを行き、その先は関東平野となります。

冬の三国峠を越えるのは、相当大変だったはずです。というか、命の危険がかなりあったと思います。
継之助の周りの人は皆、「春になってから行けばいいじゃないか」と思ったでしょう。
継之助自身もそう思います。
でも、春を待たない。
急用があるわけでもないのに、わざわざ危険をおかして、冬のうちに出立することを選びます。

継之助の心中には、あえて狂人になろうとする心向きがあります。
これは、継之助が学んだ陽明学から得たものだと、司馬さんは書かれています。
自分の命をどう使うかを常に考え、そして常に行動し続けよ。
そういう主義を持つ継之助ですから、「春を待てばいいじゃないか」という考えにはなれないのです。
そういう常識自体は、理解できる。でも、自分の行動原理とは違う。だから、常識人から見て、継之助は自分が狂人に見えることもわかっているし、それならば、あえて狂人になろうとするのが、自分の生き方だと考えているわけです。

 

江戸に着く

 

江戸に着くと、継之助は古賀謹一郎の塾に入ります。これは、古賀塾に本がたくさんあることが理由でした。
継之助は、学問は人に教えられるものではない、と考えていましたので、蔵書数で塾を選んだのだといいます。
ちなみに、前回の留学で学んだ斎藤拙堂の塾は「詩文ばかりやっていてくだらない」、佐久間象山の塾は「鉄砲を習うならまず蘭語を学べ、というやり方が気に入らない」と言って疎遠になっています。
こういうところも継之助らしさです。
「蘭語は、自分が喋れなくても、喋れる人から必要なことを聞ければそれで十分」と考えるのです。
鉄砲についても、継之助にとってはただ「撃つ」ことさえできればそれでよいのです。蘭語を学び、鉄砲の機能について理解することなどは、継之助にとっては不必要なことなのです。

次回は、継之助の子分のような存在が登場します。乞うご期待です。

 

 

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